Tuesday, September 13, 2011

糸洲の空手は首里手か?

『糸洲の空手は首里手か?』

昔から沖縄空手で言われていた口伝は、今の沖縄でも少しは残っている。ガマクやムチミ、チンクチやアテファのやり方などがそうだ。記録書なども文献は残っていただろうが、如何せん、あの沖縄戦でそのほとんどを消失してしまっていた。だから古老たちの言葉しか残っていない。その古老たちの言葉の中に、「糸洲のものは那覇手が6分で首里手が4分」というのがある。

この様に沖縄では、糸洲の空手は、純粋の首里手ではなかったと言われていた。

この事実が、今の空手界ではあまり問題にされていないが、実はこれが糸洲安恒が起こした近代空手が、純粋の首里手とは言えない理由なのである。

しかし、だからと言って、糸洲の門下生が全員、純粋の首里手ではなかったと言う訳ではない。ここが沖縄空手界のややこしい所でもあるが、先程述べた様に「昔の沖縄では型自体が、たとえ同門でも同じではなかった。」と言う事である。つまり糸洲の門下生たちは、糸洲以外にも何人かの師に就いていた。

糸洲安恒の下に「唐手を学校教育の体育空手として、近代化しよう!」と同じ意見の人たちが集まっていたのだ。

そこには多分、首里手や那覇手の関係がなかったのかも知れない。しかし、その集まった人たちの中には、花城長茂や屋部憲通といった純粋の首里手で育って来た武人がいたのだ。だから技術的には花城長茂や屋部憲通らが、実際の指導をしていたであろう。だから彼らの後輩になる城間真繁が、その影響を受けないはずがない。城間真繁のナイハンチ立ちが、技術的には花城長茂や屋部憲通らのナイハンチであったなら、それは純粋の首里手である。

「糸洲の空手は、那覇手が6分と首里手が4分」といった意味は、糸洲のナイハンチ

が、純粋の首里手のナイハンチでは無い事を意味している。どういう事かと言うと、糸洲のナイハンチは両膝が内側に入ってしまっていた可能性がある。

これが「那覇手が6分」の意味である。

つまり那覇手の三戦の影響が入っていることが、当時、誰の目からも明らかだったのではないか。でなければ、純粋の首里手で育った本部朝基が彼の著書で、糸洲のナイハンチについて批判などしないはずである。

純粋の首里手のナイハンチは、本部朝基の写真に残っていように(写真-11)、両膝が内側では無く、外側に張るようにして立つべきものだ。現在では船越義珍が起こした松濤館系の騎馬立ちに(写真-12)、純粋の首里手のナイハンチが残っていると言える。これは船越義珍の師が安里安恒であったからだ。だから、敢えて言うなら、船越義珍の松濤館系は、技術的には糸洲系ではない事になる。松村宗昆から安里安恒そして船越義珍といった純粋の首里手の枠の中に入ってしまうのである。


『沖縄空手は支那拳法の亜流なのか?』

現在の首里手の主流は、知花朝信の起こした「小林流」になる。だがその実際はとなると、一言では言い難い。何故なら、ここでも糸洲の影響を受けたと見えて、ナイハンチは両膝が内側に入ってしまっている人がいるからだ。しかし生前の知花朝信翁はいつも本部朝基のナイハンチを絶賛していたと言われる。だったら知花朝信翁は、ナイハンチは、両膝が内側では無く、外側に張るようにして立つべきだと知っていたはずだ。それは知花朝信翁の写真からも伺える。(写真-13)

このように立ち方一つとっても、各人それぞれ違うのは、やはり先程も述べたように「昔の沖縄では型自体が、たとえ同門でも同じではなかった。」と言う事になって、その修行者たちによって異なる。

それでも、沖縄では「松村宗昆を一応、首里手の中興の祖としておこう。」とする意見で一致しているので、松村宗昆が伝えた型が首里手の型だと言うことになってはいる。

松村宗昆が伝えた空手の型は、ナイハンチ、十三(セイシャン)、パッサイ、クーシャンクー、五十四歩の5型であったとされる。

知花朝信は、その十三(セイシャン)と五十四歩の型が支那拳法であるとして、自身の起こした「小林流」には採用しなかった。

しかし、松村宗昆のナイハンチは、「両膝が内側では無く、外側に張るようにして立っていただろう」と簡単に想像できる。それは本部朝基の著書に詳しく書かれてあるし、やはり本部朝基や船越義珍のナイハンチの写真を見れば一目瞭然である。船越義珍の空手の実力は定かではないが、松村宗昆直門の安里安恒から学んだ型を、正確にカタチとして残していたと言える。

(当然松村宗昆とその直弟子の安里安恒は、剣術や棒術にも長けていて、棒術は師でもあった佐久川貫賀から佐久川の棍を伝えられたとされるが、彼らの剣術の型は残されていない。)

沖縄空手の型は、確かに、全て支那拳法の単独の型を参考にしていただろう。

しかし、ナイハンチ、パッサイ、クーシャンクーは、もう元の呼び名の意味もハッキリしない程、沖縄化されたと言える。沖縄化とは、すなわち日本武術化したことだ。つまり支那拳法が日本武術化しなければ行けなかった程、日本武術の技術が高かったことになる。支那拳法と日本武術は、それほどその技術の根本からして違っている。だから「首里手=日本武術」という図式が成り立つ。だから沖縄空手の中には、支那拳法の亜流のような型も存在するが、首里手には無い。それは立ち方が違うからである。首里手は両膝が外に張り出している。これが「首里手化した」ことなのだ。


沖縄と日本は文化圏を共有しているが、支那とはしていない。その一番の理由は、沖縄と日本は着物、すなわち和服で生活していた事である。和服で生活していれば、その立ち方は両膝は内側に入らない。ピッと外に張ったようになる。だからたとえ支那人から拳法を学んでも、首里手化してしまうのであった。

那覇手の中でも、猫足立ちや三戦立ちを使わず、首里手のように立って動く人もいる。

だから那覇手も、支那拳法が沖縄化したのだ。


『首里手の基本』

それでは首里手の型として最低限、何をやれば良いだろうか?

それはナイハンチ、パッサイ、そしてクーシャンクーの3つに、棒術の型である「佐久川の棍」の4つではないか。この4つは最低限、首里手には欠かせない型であると思う。

ところが近代の空手家たちは棒術を深く研究しなかった。やっぱり時代遅れだったのだろう。徒手空拳の技に重きが置かれて行くのは、そっちの方が体育化しやすかったからで、それも仕方の無い事実であった。明治の富国強兵政策が、首里手の武術稽古から棒術が消える結果を生んだのだ。

だから徒手空拳の技だけに注目が集まったのは、避けようもなかった。だから本部朝基や知花朝信、船越義珍は棒術をやっていない。少しはかじったかも知れないが、その程度だっただろう。船越義珍は、平信賢や屋比久孟伝らと交流があったし、棒やサイ持った写真が残っているので、(写真-14)稽古はしただろうが、その後の松濤館系には棒術の型は残っていない。

この棒術の稽古が無くなった事が、実は、首里手の型を、深く掘り下げて研究する妨げになっているのである。

しかしたとえ「棒術の稽古が無くなった」とはいえ、一世代前のナイハンチの稽古、すなわち城間真繁翁から手解きを受けたナイハンチは、昔の純粋の首里手のナイハンチが色濃く残っていて、棒術や剣術の体捌きに通じるものがあったと言える。それほど昔のナイハンチは、武器術にも通じる身体の使い方、居着かない立ち方を学ぶ事が出来る重要な型であったのだ。そしてそのナイハンチは「両膝が外側に張るようにして立っていた」ことだ。どんな立ち方であっても、両膝が内側では戦えないのである。しかし昔の首里手のナイハンチの正しい立ち方のついては、沖縄でも、これまでハッキリと説明されてこなかった。その理由は、近代空手に一番貢献した糸洲安恒翁について表立っては、とても言えなかったからだろう。

それは沖縄空手の歴史の中で、一番うやむやにして於きたかった事だったに違いない。しかしその糸洲安恒翁のナイハンチについて、本部朝基はその著書「私の空手術、1932年」においてハッキリと「技術的に見ておかしい。」と言っているように、沖縄では、いろんな本に書かれてあるほど、糸洲安恒翁を高く評価していない人もいる。だからと言って、糸洲門下の全員が、彼と同じように体育化していた事ではない。

糸洲門下であった花城長茂や屋部憲通、知花朝信、船越義珍、摩文仁賢和、城間真繁、たちは、他の何人もの先生方からも学んでいる様に、前出の那覇手と同じく、多種多様であったのだ。

特に花城長茂や屋部憲通らは、剣術や棒術もこなした本当に出来た達人だったと言われている。それは糸洲以上だったかも知れない。

結局のところ、首里手の基本とは、剣術と棒術ぬきでは語る事すら出来ないのである。


ある那覇手系の会派では、今でも門人に、「棒術をやりすぎると、空手の型が変わってくるので、やらない様に。」と言っている。具体的に言うと、上体を真正面に向けるのが、だんだん斜めになってしまうからだ。